最後の徳島-大阪線

( JAC434  JA8900 )


2002/1/7

 

搭乗中のJAC434

乗客はほぼ乗り込み、エプロンにいるのは、ほとんど空港、報道関係者

 

 

 

 

02/01/07  15:35  JAC434 (Saab340B JA8900) は、
26名の乗客を乗せ、大阪国際空港へ向けRWY11を離陸した。

 

 

出発前に「さよならセレモニー」が行われ、

「先輩方が、心血を注ぎ育てた路線が時代の役割を終え、消えてゆくことは
寂しい限りですが、それは大きな役割を果たしたと言うことでもございます。」(抜粋)


とのメッセージ、その後、瀬尾Capt.と石塚C.A.に花束が贈られた。
(ちなみに、伊丹発最終便にはセレモニーはなかった。)
また、搭乗客には、搭乗口で記念のハンカチが贈られた。

 

藍染め(徳島名産)の記念ハンカチ。
( 画像提供: 大阪市在住、単なる一般市民の 大井カズオさん )

 


 

大阪-徳島の航空路は、

1922(大正11)/11/12に
現在の徳島県吉野町出身の井上長一によって拓かれた
日本初の民間定期航空路がルーツだ。

長一は、日本航空輸送研究所を創設し、純国産複葉水上機「横廠式イ号(ちどり号)」で
堺市大浜海岸と小松島市横須海岸を1時間10分で結び貨物・郵便輸送を行った。
(参考:徳島空港 送迎デッキの展示)

1957/6/20 鞄本観光飛行協会(JASの前身のひとつの日東航空のそのまた前身)
によって大阪、徳島間(当時は、堺−吉野川橋)の旅客航空路線は、
 水上機 デハビランド  ビーバー(客席数5)を使用し 開始された。

1958/5/3に、DHオッターDHC-3(つばめ号、客席数14)が就航。                        
                      
1960/5/16に、グラマンG-73マラード水陸両用飛行艇の就航で伊丹空港発着になり、

1963/10/10には、コンベア240(客席数40)の就航で現在の徳島空港(当時は、
松茂飛行場)発着になった。 
(参考:徳島空港30年のあゆみ)

その後、ノール262(29席),YS-11(64席)が導入され、
1975/6/1には、1日11往復22便(全便YS-11)に増便。

MD-87(91/4/1),MD-90などジェット機もこの距離に就航し、
91年度までは年間利用率が80%を越える、ドル箱路線だった。

しかし
、神戸淡路鳴門自動車道開通(98/4/5)によって高速バスに旅客を奪われ
利用率が激減し(46% 01/08)採算ラインを維持できないため、
この便を最後に、45年にわたる歴史に幕を閉じることとなった。

「上がればすぐ降りる。」と言われた、他府県を結ぶ路線では一番短く、
(JASのマイレージでは54mls)わずか30分ほどのフライトだったが、
地元民にとって、とても便利な路線だった。

伊丹に国際線が飛んでいたころ、早朝グァムを出発して
朝9時には自宅で朝食を食べていた。といった記憶がある。
石垣島にも徳島空港から伊丹、那覇経由で5時間で行くことができた。
今後は、陸路で2、3時間かけて伊丹、関西空港を使わなければならない。
乗り継ぎのいい空の旅は快適だった。

 

 1983年当時の航空券と搭乗券。機材はYS-11

  


 

 

徳島から伊丹へ最後のYS-11           伊丹から徳島へ最後のフライト

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